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Emancipation

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アルジャーノンの幸せとボクらの幸せについて

昔々に

一世を風靡したというてもいいかもしれないところの
この本ですけれども

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

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様々な意見があるでしょうが

今回触れてみたいなと思うのは

『多くを知ることははたして必ずしも有効であるか?』という点です。

加えて

賢くなること、知識を蓄えることは
一般的に善き事とされているけれども
はたして、如何なる場合においても善き事と断言できるか?ということも併せて。


ずいぶん前に読んだきりで
うろ覚えの部分もあるままで話を続けてしまうんだけども

確か

可哀想なアルジャーノンチャーリーは
いわゆる知的障害者という状態にある人で

それまで、その知能が低いが故に
周りの人たちから
大いに下に見られ、蔑まれ、からかわれたり
騙されたり、いいように使われたりして生きてきた。

良心、というのは
多くの人が多かれ少なかれ持ち合わせている
言わば本能の一種だとボクは思っていて

皆、その良心をもっていて
社会生活を営んでいるからこそ
社会の秩序とか道徳が守られていると思うんだけども

その良心は、だれしも持ってはいるが
たくさん持っている人と少なめの人といるらしいでしょ。

その上

その良心の持ち方も様々だし
その良心をどういう方向で使用するかも様々で

いずれにせよ

その良心の元に行動を開始するのは
人それぞれの感情や経験値や環境などが大きく作用してて

その具合で

アルジャーノンチャーリーの様な人がそばにいる時に
どのように接するかということが違ってくるわけ。


その部分にも触れたいとこだけど
今日はそこじゃなくて、知ることについてなので
今日のところはこの部分は置いといて

なにはともあれ

アルジャーノンチャーリーに対して慈愛の念で接する人もあれば
下に見て接する人もいるわけです。


そんなアルジャーノンチャーリーは
なんかのテストだったかな、それによって
物凄く急激に見る見る知的水準が上がっていく。


そうしていく中で
最初のうちは
彼もいい具合に行くかに見えたんだけども

どんどん・・・周りがおかしなことになっていく。

彼自身も、おかしなことになっていく。



それまで気づきもしないで過ごしてきた
ありとあらゆることに気づき
それについて深く感じ、考えるように変化してきた彼は

物事が・・・多く見えるようになってくる。

多く見えるようになってくると
彼の持っている良心において
あらゆる『まっとうな意見』というのを返すようになる。

それは自分を正当に扱うようにという要求であったり
不正はいけないというような正義感であったり
自分の置かれている環境や状況に対する
新たな願望や欲求であったりするわけだけど

いずれにしても
彼は日に日に心の傷を深めていく。


また、周りの人々も困惑し
果ては、彼を腫れもののように扱い始める。

これまでの彼と接していた人達に対して
超『まっとうな』正論で
言葉で打ちのめすというようなことをするようになっていくからだ。


そうこうしているうちに
自分自身の精神バランスもおかしくなっていくし
周りの具合もおかしくなっていき
それらの具合が頂点に達さんとしている時あたりから

彼の知能を上げていたお薬が切れてくるかなんか
あるいは副作用かなんか
あるいはホメオスタシスの作用かなんかで

彼自身の脳が元の彼に戻ろうとし始める。

そしてついには、戻っちゃうんだけども



そこで思うのは
多くを知ることは必ずしも幸せとはいえないのではないか?という事。


例えば


例の数字の付く巨大掲示板などで
スレッドなんかが上がっちゃって
多くの人が大いに自分のことを叩きまくっていたとしても

それを『あなたここに書かれてますよ』とか
悪意か好意か判断のつきかねる感じのお知らせを受け取り
そこを見るまでは、何のこた~ないはず。

しかしひとたび知ってしまうと
そこに書かれている誹謗中傷に派手に傷つき困惑し
余計な不安まで抱えて被害妄想まで出てきちゃうも知んない。

大いに大いに心乱されちゃうわけ。


このように、知らない方が幸せだった。というようなことは
この世の中、思ってるよりたくさんあるように思う。



人間というものは

良くも悪くも『今、目の前で繰り広がっているもの』に意識が向き
それに対する反応をするようにできていて

またそれぞれに
許容範囲もあれば認識可能範囲なんかもあるのに違いなくて

それっていうのはきっと

ざっくり言うなら
『生き暮らしていく中で必要十分な範囲』ということになってる気がしていて

その範囲を超えたことを知るとろくな事がないよってのが
物事の摂理ってもんなんじゃないかとか。



その『生き暮らしていく中で必要十分な範囲』ってのを超えて

知識を携えたり、深く感じる能力が備わったり
深く考察する能力が備わったりすると

それに伴った行為をするようになっていくんで

本来の自分の『生き暮らしていく中で必要十分な範囲』という
いわゆる身の丈、等身大ってのを越えようとしていってしまう。


そしてじわじわとバランスが崩れてくる。



かくしてアルジャーノンチャーリーは

だいたい元の自分に近いあたりまで
知能の具合が戻ってったはずなんだけど

ハートの具合、記憶の具合は
少し残った感じで・・みたいなニュアンスだったかな。


詳しくはうろ覚えだけど
それでも彼は幸せだったという落ちだったと思った。

幸せな彼の人生に戻った、みたいな感じのラストだったと思った。




そしてボクは思う。


今まさに、今

昨今のネット上でTwitterやブログ等のツールを使い
自分の意見発信をしているみんなの多くが

もちろん、自分も含めて

身の丈を超えてやしないかと。



多くの情報に触れ

おおよそ自分の生活に直接関わりのない所まで
意識や注意を大いに向けて

一喜一憂したり
知らなければしなくて良かったはずの
多くの諍いが起きたりしている。

それは何故そうなってるかといえば

多くを知ることに正比例して
多くの悩みを抱えることになり
全貌の見えない、しかしすごくリアルに胸に迫りくる
多くの不安や不信感を増大させながら

毎日毎日
大きなことから小さなことまで
抱えきれないほどの量の『気にするべきこと』を頭に送りこんで
受信せねば、発信せねばと躍起になってる。という状態なんじゃないか。

もちろん

深く感じないことや
広く物事を見ることができないということや
真剣に考えられないということは

多くはもったいなかったり、残念だったりすると思うけど


もともと身の丈に合わせた分は備わっているはずで


ほんとは、それで十分じゃないのかな、と思う。


何事も一事が万事
過不足ない状態がベストのはず。



これが真理だとすれば

あまりに多くを知る必要もなければ
あまりに賢くなりすぎる必要もない。ということになると思う。


加えて

自分より多くを知らないと思しき人や
賢さが足りないように感じられる人などを
蔑む必要も、権利もない。ということになると思う。


その人なりの『ちょうどいいとこ』で生き暮らし行動する権利を尊重して然り。



人より勉強ができないことや
何らかの能力が劣っていることや
気が回らなかったことや
ありとあらゆる『人よりできない自分』を

必要以上に残念がることも悔しがることも、しなくて良いのだと思う。



そんなことをここに長々と記した自分は

まさに『実に取るに足りない人間』であり
多くの至らなさを抱え
多くの問題と未熟さを抱え

それでも『自分なり』に生きていかねばならない。


自分を高めるために
自分よりちょい上くらいのフィールドにいる人と付き合うよう心掛けて
学んで習得していくことももちろん大事だが

そのことにあまりに躍起になるのもナンセンス。


そんなことよりも

良い意味で『身の丈』を意識した行動範囲の設定と
それを守ろうとする努力をしていく。

このことに注意を向けてった方がいいかもしれない。


アルジャーノンチャーリーの幸せも
アルジャーノンチャーリーの身の丈に合ったものがあったように

ボクらの幸せも
ひとりひとりの身の丈に合ったものが、あるのだと思う。







書いてからしばらくして

アルジャーノンは、ネズミのことであり
主人公はチャーリーという人だったことを思い出して
訂正したりしました。

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テーマ : 思ったこと・感じたこと  ジャンル : 日記

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プリンス狂で
おおよそ頭がいかれてる脳内両性具有。
つまり、バイセクシュアルってことです。

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